先日子どもたちと、生成AIを相棒に、館内を巡る「謎解きツアー」をやってみました。
新春カンチョーミステリーツアー
「迷探偵カンチョ〜消えたおせちの虚像〜」
カンチョーがお正月に食べようと準備していたおせちが盗まれた。それぞれの具材は、科学館内で普段は入れない執務エリアも含む各所に散らばって隠されてしまったようだ。
探偵諸君、今日はAIを相棒に、それらをひとつずつ探し出して、コンプリートを目指してくれたまえ。
なお、おせちの具材をひとつ見つけるごとに、次の具材を探すヒントを勝手に教えてくれるから、よーくきくんだぞよ。
byカンチョー
毎年お正月恒例で実施している、カンチョー(私)による館内バックヤードツアー。
以前から保護者の皆様から、生成AIについての質問や触れる機会のリクエストをいただいていたので、それをきっかけにした企画にしました。
子どもたちは最新ツールを手に、意気揚々と館内に繰り出したのですが、そこで立ち上がってきたのは、テクノロジーに対峙した時によく見られる「視線の刈り取り」でした。
画面の引力
さて、まずはこの企画展のポイントをご紹介。
謎解きの舞台は、ごく限られたスペースです。
それに、生成AIからの回答はどこか空虚で、もっともらしい嘘でした。
「なんだよこれ」「ぜったいそんなはずないじゃん」
子どもたちにとってみてもとても分かりやすい嘘だったようで、最初は盛り上がっていたのですが、次第に「おせちを見つける」というミッションに対して全く役に立たないことにストレスを感じ始めているようでした(意図していましたが)。
さらに、子どもたちの興味は「おせちを探すこと」から、「生成AIというシステム」そのものへどんどん移って、 言わせたい言葉を引き出すための問いかけ(プロンプト)をどうするかだけに没頭していっているように見えました。
ある子が、生成AIにわざと嘘をつき、「いかにヘンテコな回答をさせるか」というゲームを思いついた時には、みんなそれを楽しむという流行がありましたし、ある子は、「あなたは戦国時代の武士だ」「あなたは渋谷のギャルだ」などと指示を出し、生成AIをいろんなキャラクターに作り変えて楽しんだりしていました。
これらのことは、生成AIのロジックをブラックボックスとして受け身で終わらせず、積極的に解体しようとする意味では、極めて純度の高い探究の姿のように思います。
けれど、子どもたちの目に科学館はもう映っておらず、タブレットの液晶だけが彼らの視界を席巻していました。
「これ、おもしろいの?」というつぶやき
そんな中で、ある子がポツリと言いました。
「AIに聞けばすぐ終わるし、バグらせるのも面白いけど……。それって家でできるじゃん」
おおー、きたきた。
この子と事前に打ち合わせしていたわけじゃないですよ。
私がこの企画を設計した意図は、生成AIに慣れることではなく、使った先にありました。
図工美術的に考えると、人はこれまでも、たとえば「写真」というテクノロジーが誕生した後も、あえて「絵画」などの(ある種ノイズだらけの)手法を手離しすことはありませんでした。
それでも描くのは、その「まどろっこしいプロセス」を通じて、対象をよく見て腹落ちさせ自分の血肉とし、自分が感じたことを表現するためだったはずなのです。
どう学習介入すべきかが明確化した気がする
今回の企画で私は、指導者側の学習介入の意図が明確化したと感じています。
AIをハックして自分の感覚に忠実に、遊びながら親しむこと自体は、それはそれで素晴らしい価値があると思います。
けれど、大人が適切なタイミングで「介入」し、問いのピントを絞り直さなければ、子どもたちは「ツール」の中に埋没していき、まわりの「世界」を見失ってしまいます。
文科省のWGの資料にもある通り、探究の起点は「実生活との関わり」にあります(教育課程部会 「生活、総合的な学習・探究の時間ワーキンググループ」第3回令和7年12月26日開催 配布資料【資料1】 「総合的な学習・探究の時間に関する目標・内容の構造化等について(前提となる諸論点の整理)」より)。
でも、好奇心が画面の中に収束し、閉じてしまったとき、それは果たして「生きた探究」と呼べるのでしょうか。
山を登るときに、歩いて登山するのか、ヘリコプターを使うのか。
それぞれのプロセスにおいて何が異なるのか。
“便利な”相棒を手に入れたと感じたとき、それでも「ゆっくり登山をする」という贅沢な遠回りの価値や圧倒的な楽しさを、どう伝え、どうデザインするか。
生成AIの登場は、指導者である我々に、今一度そのことについて考える重要性について示唆しているように思います。
【ついしん:私自身とAI】
最近、私は自分自身にひとつの絶望を感じています。
生成AIはこちらで指示しない限り基本的には私を慮ってくれるので、その「ストレスゼロ」の会話に慣れすぎてしまい、生身の人間との効率的でないコミュニケーションに、言いようのないストレスを感じるようになってしまったのです。
心理学者のシェリー・タークル(Sherry Turkle)さんは、「効率的な接続に依存することで、私たちの共感能力は萎縮(Empathy Atrophy)し始めている」と言っています。
つまり私自身が生成AIに依存するあまり、登山する筋肉を衰えさせていたのです。
しかし一方で、最近の世界のニュースでもある通り、こうした問題が顕在化すると、世の中はすぐに「規制」や「我慢」の方向に動きます。
でも、特に子どもたちの教育において、それは実効的ではないと私は思うのです。
サービスの質が圧倒的に向上した現代において、人間、特に子どもは「便利さ」や「作られた強い刺激を受ける」という欲には絶対に勝てません(と、いつも意志の弱い私は思っています)。
「我慢させる」のではなく、「自分の足で山を登ることは、ヘリコプターで山頂に降りるよりも圧倒的に面白い」という状況を、いかに彼ら自身の体験となるようにデザインし続けられるか。
そして、そんな環境をデザインすることを、実はずっと昔から考え続けてきた人たちが、図工美術の先生なのではないかと思っています。
テクノロジーを否定するわけでは決してありません。
「規制」や「我慢」だけで「無かったことにする環境を整備する」のではなく、真正面からその存在を全面的に受け入れることが大事だと思います。
その上で、「土の感触」「木々の匂い」「すれ違った見知らぬ登山客との交流」という体験を、最高にクールで、スリリングで、刺激的な体験として提示し続けること。
それが、これからの図工美術、そして私たち大人にとっての最大の挑戦になっていくのではないでしょうか。
★板橋区立教育科学館の取組みは、板橋区立教育科学館のサイトhttps://www.itbs-sem.jp/でご確認いただけます。
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