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Phase055:教育OSアップデートがあります〜学びのありかは、時代によって変化する〜

前回の記事では、AIという相棒を手にした子どもたちが、画面の中のアルゴリズムに吸い込まれていく姿について触れました。

この時に書いた、僕が感じた違和感の本質は「AIか、身体性か」という二者択一の対立ではありません。

むしろ、AIという強力な利便性を得た今だからこそ、私たちが「学びの構造」をどう再設計するかという、極めて戦略的な問いにあるような気がしています。

つまりそれは、教育というシステムの「OS」そのものが、いま決定的な転換点を迎えているということだと私は考えています。

今回は、これらの問題について皆様と継続的に考えていく、きっかけとしての記事にしたいと思います。

(今回はなんと、写真がありません!)

 

 

 今一度問う:「学びはどこにある?」

 

これまでの教育OSにおいて、「学び」とは「正解(結論)」を効率よく理解し、習得することにありました。

しかし、近い将来、AIがその結論を瞬時に、かつ高精度に提示してくれるようになるであろう今、結論を効率よく理解することそのものの価値は暴落しました。

ここにはもう、子どもたちが必要とする「学び」はありません。

それよりも、人間の知能として問われるのは「結論」ではなく、「世界に対する感受性の解像度」のようなものになるのだろうと僕は考えています。

 

たとえば、現時点でのAIは、まだリアルの世界を直接見る目を持っていません。

だから、対象をぼんやりとしか見ていない人の問いには、どこかで聞いたような一般論しか返せません。

しかし、実際に土に触れ、素材の触感を得て、世界を執拗なまでの解像度で観察してきた人の問いには、AIは驚くほど鋭利な回答を返します。

AIという「リアルの世界を見ることができない」相棒を使いこなすためには、人間側がどれだけリアルな世界を深く、解像度高く見ているかが問われているのです。

 

しかしこれは、現時点での話。

おそらく近い将来、この状況も一変するでしょう。

ロボティクスと高度なセンシング技術が融合すれば、近い将来AIは人間を凌駕する精度で世界を「計測」し始めるはずです。

その時、僕が今書いている「AIはリアルを見られない、だからそここそ人間の役割なんだ!」という論理は、あっけなく崩れ去ります。

 

 

例:「解像度」と「気持ちの揺れ」が融合した「感受性」

 

では、AIが「人間を凌駕する精度で世界を計測」するようになったあと、学びはどこにあるのでしょう。

僕は、AIが提示する高精度な回答に対し、「でも、何かが違う」という、微細で、極めて個人的な感情ー「きもちわるさ」「満足できなさ」といった「違和感」を見逃さず、反応できるかという部分に注目しています。

そしてこの違和感には、世界を詳細に計測する高い解像度の目だけでなく、それまでの経験によって培われた美意識などの感覚と融合した、いわば「感受性」が大きく作用しているのではないか、と仮説をもっています。

実際に土に触れ、素材の抵抗を感じ、対象を執拗なまでの解像度で観察し、自分の中に起こる精神作用と対話し続けてきた人間だけが、AIの「正解」の中に潜むわずかな「自分だけが感じるズレ」に気づき、深めることができるのではないか、ということです。

(ちなみにこのことは、本稿では「AIとの関わり」という文脈で書いていますが、思い返せばそういえば、歴史上の名だたる研究者、美術家、デザイナーといった世界を作ってきた人々ははこぞって、自らの活動のきっかけに「違和感」を上げる場合が多いな、なんて思い返したりしています。)

 

 

感受性を磨く 

 

では、感受性を磨く、とはどういうことなのでしょうか。

僕はここで、ピアジェの構造主義を再定義してみることを試みたいと思っています。

彼が説いたいわば「環境とのインタラクション(相互作用)」は、まさにこの違和感に気づくための、身体的なトレーニングといえそうです。

人は、環境に働きかけ、そこから返ってくる予期せぬ「摩擦」を通じて、自分の中に新しい知の構造を組み立てます。

この「摩擦」の経験値が低いままでは、AIが提示する「完璧な世界」に飲み込まれてしまう。

教育の役割は、あえて子どもたちを「良質な摩擦」の中に放り込み、自らの身体で世界の輪郭をなぞらせ、AIの正解を疑えるほどの「豊かな感受性」を育むことへ、シフトしていくのではないかと思います。

そしてこの感受性を磨いた後でのAIとの関わりによって、それまでの「世界を形作ってきた人々」の多くが経験した困難を一気に飛び越えることができるようになることこそが、本当の意味で「特別な人だけじゃなく、誰もが世界をつくれる時代」と言えるのではないでしょうか。

 

 

教育者側の意識転換 

 

「答えを教える」という、ある種の特権を、捨てきらなくてはいけない。

このことは、私自身もひとりの教育実践者として、ドラスティックな意識転換を必要とする、大きな出来事です。

しかも、頭ではわかっていても、授業の中のささいな場面で、どうしても「旧・教育OS」で動いてしまったりもします。

「新・教育OS」とは、教育者側が、子どもたちが世界と格闘し、自分なりの違和感を育てるための「時間と不自由さ」を魅力的にデザインする空間演出家になることなのかもしれません。

いま僕が夏に企画している展覧会構想は、まさにこの新しいOSの実験場です。

AIという強力な相棒を使いこなしつつも、最後には自分の身体と素材、そして仲間との対話を通じて、自分なりの「世界への解像度」を立ち上げていく。

これは「AIを遠ざけて昔に戻る」話ではありません。

むしろAIという極めて質の高い相棒を得たことで、私たちが元来大切にしてきた「自らつくることによる知の構築」という構造が、かつてないほど贅沢で、不可欠な価値を増したのだと考えています。

この企画展の計画については、このブログでも時々ご報告いたします。

 

 

ついしん 

 

前回のついしんで、僕は「AIとのストレスゼロの会話に慣れ、生身の会話に疲れる自分」について白状しました。

効率的なコミュニケーションに依存しすぎることで、僕自身の「登山する筋肉(違和感に気づく感受性)」が衰え始めていたのです。

こうした課題に対し、単なる「規制」は実効性を持ちません。

だからこそ、便利なものに触れることを我慢させるのではなく、「自分の手で世界を構築する快楽が、AIにすべて任せっきりの「楽(らく)さ」の快楽を圧倒的に凌駕する状況」を、いかにデザインし続けられるか。

その意味では、先生方が現場で守り続けてきた「主体的な試行錯誤のワクワク」は、AI時代において、もはや「新時代の知性の基盤」になるのだと僕は思っています。

 

 

★板橋区立教育科学館の取組みは、板橋区立教育科学館のサイトhttps://www.itbs-sem.jp/でご確認いただけます。

 

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Author:清水輝大(しみずてるひろ)
1983年、北海道生まれ。
板橋区立教育科学館館長、ラーニングデザインファームUSOMUSO代表、武蔵野美術大学ソーシャルクリエイティブ研究所教育共創ラボ研究員。
青森県立美術館、はこだてみらい館、八戸ポータルミュージアムはっち、ソニー・グローバルエデュケーションなどを経て、現職。
図工美術教育の手法を援用し、創造的なSTEAM教育、プログラミング教育、探究学習などの実践研究を行う。