最近のこのブログは、生成AIネタが多くなってますね。
今回もその流れで、もう1つ僕が最近よく考えていることがあるので、つれづれなるままに、それも書いてみようと思います。
生成AIが驚くほど流暢に言葉を操るようになった今、私たちは、教育活動の中での「言語化」なるものの意義を今一度振り返りつつ、構造を捉え直す必要があるのではないか、ということです。
「記号」を自分のものに
言語化について問い直そうということで、少し原点に立ち返ってみましょう。
大学の授業を思い出しますね。おなじみ、近代言語学の父・ソシュールさんのことです。
ソシュールさんは言葉を2つの側面で定義しました。
言葉の文字や音という、単なる外側の形(記号)である「シニフィアン」と、それが指し示す概念である「シニフィエ」です。
本来ソシュールさんが言ったシニフィエとは、辞書に載っているような「共通の概念」を指していたと思います。
実は、ここが僕はいまとても気になっていて、教育活動の中で、このシニフィエを拡張的に解釈し、「自分自身の体験や周辺情報によって、いかに重層的かつ高精細な自分だけのものに更新していけるか」ということの大事さが飛躍的に増していると思うのです。
認識の高精細化の一助としての言語化
先日、このブログを長年編集してくださっている、我らがアニキ!の樋野さんから興味深い話を伺いました。
フレグランスなどを開発する調香師さんの話です。
彼らは、混ざり合って曖昧に空気中に存在する匂いたちのそれぞれに、名前を与えることで、その奥にある「質感」「温度」「記憶」といった膨大な周辺情報(シニフィエ)を整理し、自分の中に区別し直している、というような話だったと思います。
つまりたくさんのにおいをかぎ分けられるということは、感じとった情報を極めて細かい粒度で言語化することで、匂いどうしの微細な違いを高度に認識している、ということのようです。
インプットと細かい「言語化」の往還によって、記号は単なる記号を超え、私だけの「実感」へと変化するのだろうと思いました。
シニフィエの大事なとこって実は言語化されない?
一方でAIは、インターネット上の膨大なシニフィアンを駆使して、もっともらしい言葉を紡ぐことに関しては天才的です。
ただしそこには、身体的な実感を伴う「シニフィエの土壌」が欠落しています。
それに対して、先生方が授業中におそらく「見逃すまい!」と最も気を遣っていらっしゃるであろう、子どもたちが何かに没入している瞬間。
「目がキラキラと輝く」「思わず口が半開きになる」「一瞬、身体が硬直する」。
そんなちょっとした瞬間、子どもたちの体内ではおそらく、その子だけの、将来的に豊かなシニフィエを立ち上げるための土壌としての「感覚」が、猛烈な勢いで積み重なっているのではないでしょうか。
この、言葉になる手前の「非言語的な没頭」こそが、AI時代における学びの本体になると僕は考えます。
さらには、こうした数値化できない、でも圧倒的な厚みを持った「感覚的な情報」こそ大事なんじゃない?ということは、今あらゆる皆さんが直感的に感じているところと思いますが、定量的に評価することに慣れてしまった私たちにとって、その評価の取り扱いが難解であることも事実です。
とはいえ、でもやっぱり、AI時代においてはここ、もう逃げられないんですよね。
「感じる」ことを正当に評価するためのプロンプト、今後皆さんと一緒に考えていきたいです。
感覚に没入できる状態のデザイン
AIが提示する淀みのない正解(のようなもの)に対峙したとき、自分の中に生まれる「わずかな気持ち悪さ」を察知できるか。
そしてその違和感の正体は、自分の身体が蓄積してきた「厚みのあるシニフィエ」と、AIが吐き出す「薄っぺらなシニフィアン」との摩擦、とも言えるかもしれません。
言語や情報で溢れる時代に忘れがちになりますが、私たちが住む世界は、私たちが作ったものではない、自然のものです。
そんな世界を、私たちは私たちそれぞれがもつ固有の感受性によって認識し、体内で再構築して生活していますから、僕が住んでいる世界と、皆さんが住んでいる世界は、実は別物なんでしょう。
僕が考える太陽の赤さが、あなたにとっては実は緑だったとしても、共通言語としての「太陽の赤」というシニフィアンだけでは、一生そのシニフィエ上の差異に本質的に気づくことはないのかもしれません。
「言語化」という言葉について考えるとき、「シニフィアン」と「シニフィエ」に分けて捉えると、それはまさにAIと人間の立場のメタファーのように思えてきました。
感覚的な世界を慈しみ、そこに安心して浸ることができる環境を保障すること。
感覚に没入できる状態をデザインすること。
AIがシニフィアンとしての言語を独占していく今だからこそ、私たちは、言葉にならない「感じる」という土壌を、これまで以上に深く丁寧に耕し、固有のシニフィエを豊かにする活動を続ける必要があるのだろうと確信しています。
そしてその固有のシニフィエが豊かになったら、人間から紡ぎ出される言語はより多様になるので、その結果としてAIはさらに人間にとって素晴らしい相棒になっていくのではないでしょうか。
ついしん:私とあなた、そして「揺らぎ」
こうして考えてみると、僕が誰かと対話するとき、大切にしているのは記号としての言葉そのものよりも、その情報の周辺にある、いわば「揺らぎ」なのかもしれないなと感じます。
「私(I)」が何を語るか以上に、「あなた(You)」がどう感じ、どう反応しているか。
その非言語的なシンクロニー(同期)の中にこそ、IとYouの間を行き来し、認識的な世界を構成している「真実」が隠れている気がします。
シニフィアンの交換だけに言語の存在を認め、この一見効率的なコミュニケーションに依存すると、私たちの共感能力はどんどん痩せ細っていきます。
だからこそ、あえて言葉にならない「まどろっこしい感覚」の存在を意識的に認めていく。
何かの事象に対して感動したことを、論理的に説明することももちろん大事ですが、まずは、子どもの「……すごい…!」という一言に込められた、圧倒的な固有の解像度を信じ、それを今まで以上に積極的&意識的に承認していく姿勢が、特にAI時代においては指導者側に求められているように感じます。
そんな、一見「非合理的」に見える図工室や科学館での時間が、実はこれからのAI時代を生き抜くための、最も強固なOS(基盤)になるはずなのだろうと僕は思っています。
★板橋区立教育科学館の取組みは、板橋区立教育科学館のサイトhttps://www.itbs-sem.jp/でご確認いただけます。

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