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第四七回 パブリックアート探訪記 No.05 仙台編(前編)

 

 

パブリックアート探訪とは

 

 この連載では、パブリックアートを切り口にまちに繰り出す。ただし、「何がパブリックアートか?」という定義を明確に定めているわけではない。と言うのも、この用語を構成する「パブリック」も「アート」も、その実態が掴みにくいからである。例えば、本稿で取り上げる「作品」は、そのほとんどが公共空間に設置されているため、基本的に誰でもアクセスすることができる。しかし、公共空間にあるという理由だけを以て、それをパブリックアートと決めつけるわけではない。むしろ、「これもパブリックアートなのではないか」と問答しながら各種の造形物をそぞろみることに本探訪の趣旨がある。

 

 

仙台駅にて

 

一色邦彦《奥州街道旅姿》1977年
一色邦彦《奥州街道旅姿》1977年

 連休の真っただ中、水戸市での「放課後の学校クラブ」の活動を終え、「金ケ崎芸術大学校」  (金ヶ崎芸術大学校の取組みはこちらから)へと向かう道中に、仙台駅で途中下車。かつて、山形に住んでいたこともある筆者にとって、仙台はなじみの深いまちである。これまでも、断片的に野外彫刻を目にしてきたが、改めてじっくりと巡ってみることにした。

 水戸駅から常磐線の特急ひたちで約3時間、ホームに降り立つと早速に壁面レリーフを発見。古風な人々が道を行き交う様子が表現されている。以前に「そぞろみ部」で駅をテーマに歩いた際にも着目したが(そぞろみ部 No.03「駅」はこちらから)、駅には案外多くの美術作品が眠っている。 近くに設置されたキャプションによれば、彫刻家の一色邦彦による《奥州街道旅姿》とのこと。現在の駅舎が開業した1977年より緑の窓口前に掲げられていたらしい。今は場所を変えて乗降客を見守っている。


原画:近岡善次郎、制作協力:ルイ・フランセン《杜の賛歌》1978年
原画:近岡善次郎、制作協力:ルイ・フランセン《杜の賛歌》1978年

 これから始まる東北の旅路を重ねつつ改札を出ると、真正面に大きなステンドグラスが見えてくる。仙台駅の待ち合わせスポットとしても有名なこの場所では、この日も途切れることなく誰かが誰かの到着を待ちわびていた。そもそも、このステンドグラスは新幹線の開通を控えて装いを新たにした仙台駅の発展を願い、1978年に制作された。先ほどのレリーフと設置時期が重なっており、新しい駅をつくる意気込みが感じられる。

 原画を担当したのは山形県出身の画家である近岡善次郎。そして、制作協力としてルイ・フランセンも挙げられる。各地を探訪していると、しばしばルイ・フランセンの名前を見かけるが、その功績は様々な原画をもとに壁画やステンドグラスに「翻訳」するパブリックアートの作者として知られる。ちなみに、企画制作として携わる日本交通文化協会は、日本各地の駅に「パブリックアート作品」を設置してきた立役者でもある。

 


 

 

杜の都を望む

 

 ここでじっくりと先のステンドグラスを鑑賞してみる。一般公募によって《杜の賛歌》というタイトルに決定されたこの作品には、まさに仙台を象徴するモチーフが組み込まれている。画面上部には伊達政宗の騎馬像、遠景には松島の風景も描かれる。そして画面全体を流れるように構成された色鮮やかな七夕飾りには、光の芸術としてのステンドグラスの効果が存分に生かされている。ふと、去年の夏休みに「放課後の学校クラブ」の子どもたちを連れて、人混みにまぎれて七夕祭りを巡った時のことを思い出す(放課後の学校クラブ 第16回 「修学旅行復命書」はこちらから)。 

 ここでようやく駅舎を出てペデストリアンデッキへ。快晴の探訪日和。まさに「杜の都」を体現する新緑の美しい季節であった。デッキから通りを見渡すと、植栽の中央に大きなオブジェ。一見すると、伊達政宗の兜につけられた三日月を彷彿とさせる。周囲にキャプションを探せば、昆野恒による《青葉の風》という作品であることが判明した。制作されたのは1981年。東北新幹線が開通したのがこの翌年の1982年であるため、この時期に仙台駅周辺が大きく変貌を遂げていたであろうことを想像する。

 

 心地よい青葉の風に誘われて、仙台駅からバスに乗り、仙台城の本丸跡へ。余談になるが、今回の旅路の目的地である金ケ崎も、仙台藩にあった21要害の一つ。金ケ崎サイドから見れば、恐れ多くもお殿様のお城への謁見である。無論、今回はパブリックアート探訪ということで、その目的が伊達政宗騎馬像の拝見であることは言わずもがな。

 

 

昆野恒《青葉の風》1981年
昆野恒《青葉の風》1981年

 こちらの騎馬像は、2022年3月に発生した福島県沖地震で破損してしまったことも記憶に新しい。しばらく修復のため台座から切り離されていたが、2023年4月に無事帰還。筆者も、地震後初めての訪問となったわけだが、道中ではいまだに石垣が崩れている箇所 もちらほら。ようやく本丸にたどり着き、青空を背に杜の都を望む伊達政宗とご対面。

修復中の石垣
修復中の石垣

小室達《伊達政宗騎馬像》1935年(消失)、1964年(再建)
小室達《伊達政宗騎馬像》1935年(消失)、1964年(再建)
仙台城跡から仙台を望む
仙台城跡から仙台を望む

 

 

アートとモニュメントの間に

 

伊達政宗騎馬像台座背面
伊達政宗騎馬像台座背面

 ここで改めて「伊達政宗騎馬像はパブリックアートなのだろうか」という疑問が脳裏をよぎる。台座背面に刻まれた騎馬像の歴史によれば、この像は1935(昭和10)年につくられたことが分かる。当時の宮城県青年団が、郷土の彫刻家である小室達に制作を依頼した。しかし、1944(昭和19)年に太平洋戦争に伴う金属供出により一度姿を消している。その意味において、現前にある騎馬像はオリジナルではない。

 

 戦後、1953(昭和28)年に小野田セメント株式会社によって白色セメントによる立像が寄贈されたが、これは現在の騎馬像とは別物である。その後、柴田町に騎馬像の原型が保存されていることが分かり、1962(昭和37)年に仙台市観光協会の改組記念事業として銅像の復元が企画された。そして、宮城県、仙台市、柴田町の支援や県内外の協賛を得て、1964(昭和39)年に再建され、現在に至る。

 

 

 

 このように、数奇な運命を辿りながら、時代の流れとともに再生を成し遂げてきた銅像は何を訴えているのだろうか。そこには、おそらく様々な思惑もあったに違いない。結果として、この騎馬像は特定の個人の表現に依拠した「作品」としての範疇を超えて、不特定多数の人々の仙台に対する想いを背負った記念碑的な野外彫刻となっている。

 

昭忠碑
昭忠碑

 さらに、仙台城跡にはもう一点、パブリックアートか否かの判断が難しい彫刻がある。1902(明治35)年に設置された「昭忠碑」がそれである。当時の陸軍第二師団関係者によって組織された宮城県昭忠会が設置主体となり、西南戦争や日清戦争等の戦没者慰霊碑として建立された。そして、この碑の塔上には鵄(とび)の銅像が設置されていた。制作にあたっては、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に委嘱され、河邊正夫の全体構想のもと、沼田一雅が原型を制作し、桜岡三四郎と津田信夫が鋳造を行ったとのことである。

 

 先の騎馬像が金属供出により消滅しているのに対して、この銅像は陸軍が設置に関わっていたためか、供出を免れている。そのため、戦前のブロンズ彫刻としては数少ない現存作例として位置づけられる。しかし、2011年に発生した東日本大震災により塔上から落下。大きく破損した。これだけの重量のものが落ちてきた衝撃は想像を絶する。その後、修復がなされたが、安全面を考慮し、今も鵄は地上に降り立ったままである。かつて、戦争の慰霊を目的に建立された「昭忠碑」は、東日本大震災の記憶を伝えるモニュメントとしてその意味合いを変えつつある。

 

 このように、仙台城跡にある二点の銅像は、それぞれに戦災と震災という大きな出来事に直面しながら、現地に存在し続けている。そこには確かに保存の力学が作用しているわけだが、そこに込められた想いは時代とともに大きく変化してきた。これらを前にして「これがなぜここにあるのか」という問いから、このまちの記憶について対話を重ねることもできる。とするならば、そこにはやはりパブリック(公共)を考えるためのアート(造形)の役割を見出すことができるのかもしれない。(後半に続く)

気まぐれ読書案内

 

マーガレット・A・ロビネット(著)千葉成夫(訳)『屋外彫刻―オブジェと環境』鹿島出版会、1985年

 

原著(Outdoor Sculpture: Object and Environment)が発行されたのは1976年。野外彫刻(本書では主に「戸外彫刻」と訳される)について、古代からの歴史を追いつつ、特に近代以降の公衆彫刻のあり方について、具体的に取り上げられています。扱われているのは海外の事例ですが、日本におけるパブリックアートの展開を考察する上でも、大いに参考になる一冊です。

 

No.04(立川編 後編)<パブリックアート探訪記>No.06