城内農民芸術祭2025に向けて
宮沢賢治の「農民芸術」の考え方を参照しながら開催してきた「城内農民芸術祭」も回を重ねて7回目(過去の「城内農民芸術祭」のレポート:第三回「城内農民芸術祭」前編 第十二回 「城内農民芸術祭2022」 第二十一回 「城内農民芸術祭2024」開幕編)。今年のテーマは「EVERYONE is an ARTIST」。『農民芸術概論綱要』より「誰人もみな芸術家たる感受をなせ」というフレーズを引用したものである。
同じテーマで開催した夏休みの「小学生ウィーク」では、「EVERYONE is an ARTIST」を1文字ずつ分担して1枚の版画に仕上げた(制作の様子はコチラから)。それをもとに完成したポスターは、まちなかの様々な場所で掲示されている。また、前回の「図工のあるまち」で紹介した「かみしも結いの会」の皆さんとのワークショップの成果物も無事に完成(制作の様子はコチラから)。10月18日に金ケ崎駅前で開催された「オーワングランプリ」の会場では、さっそくポスターとして活用されていた。
こうして着々と「城内農民芸術祭2025」に向けた準備も進んでいった。開幕1週間前には、村山修二郎さんが現地にて滞在制作に取り組んだ。2020年から継続してご参加いただいている村山さん。今回は「アーチ」をキーワードに複数の作品がそれぞれの場所にあわせてつくられていった。土合丁・旧大沼家侍住宅では、土間に大きな紙を広げ、周辺から採集した植物を画材に「緑画」を制作。植物の種類により異なる色相を活かして虹のようなイメージが浮かび上がってくる。土間の土を箒で掃きながら描画する場面もあった。
旧菅原家(旧狩野家)侍住宅の裏庭でも、地面に紙を置いて「緑画」を公開制作。前日からの雨で湿った地面で紙が濡れてしまっても自然のままに。まさに植物が育っていくようにしなやかに作品が生まれていった。また、庭園では竹を用いたアーチ状の構造からなるインスタレーションを展開。空間に線をかくように配置された作品は庭園の奥行を強調しながら新たな風景をつくりだす。
金ケ崎要害歴史館から片平丁・旧大沼家侍住宅へと向かう木道にもゲートのような作品を設置。最終的には、土合丁・旧大沼家侍住宅の土間、旧菅原家(旧狩野家)侍住宅の庭園、木道を通って片平丁・旧大沼家侍住宅の座敷にいたるまで、伝建群一帯に作品が点在することとなった。その様子はまさに「芸術祭」である。ちなみに、《歩く鼓動―すべての生き物と共に鼓動を鳴らす―》と題した一連の作品は、最終日の12月7日に開催予定の池宮中夫さんによるパフォーマンス「鼓動のパレード」の道しるべともなっている。
「EVERYONE」とは誰か?
村山さんの作品からは、場所と呼応しながら絶妙なバランスを保った緊張感のある空間を実感する。こうした「展示」に対する意識の有無は、確かにアーティストとアーティストではない人(とあえて呼ぶ)との重要な境界線となり得る。
とは言え、ものをつくりだすという点においては、アーティストとそうでない人とを分ける必然性を見出すことはむしろ難しい。『農民芸術概論綱要』の言葉を借りれば、それぞれの個性の優れる方面において各々やむなき表現をなす時、アーティストを自認していてもいなくても、あるいは大人でも子どもでも、そこに等しく広義の芸術が立ち現れる。とは言え、各地で開催されている「芸術祭」では、やはりアーティストによる「作品」は特別な存在として既存の生活環境から切り離されて「展示」されることが多い。そうした状況と比較すると、「城内農民芸術祭」ではどこからどこまでが「芸術祭」なのか、その境界が曖昧である。
その曖昧さもひっくるめて、今回は新たな試みとして「金ケ崎芸術小学校の小さな作品展」を実施することにした。これまでに何度も大学校に足を運んできたおなじみの小学生に声を掛けて実現した企画である。大学校でつくった作品に加え、家でつくった作品や学校の宿題でつくった作品などから、保護者のご協力のもと作品を選んでご持参いただいた。作品数は無制限かつ無鑑査のアンデパンダン展である。
一人目は、かつて「図工のあるまち」の「とある小学生の『小学生ウィーク』の過ごし方」(詳細はコチラから)でもスポットを当てた小学生。当時は2年生だったが、現在は4年生。保護者によれば「今年の夏は虫三昧」とのことで、出展作品も虫に関連したものがたくさんあった。中でも目を引くのは、立派な標本箱にきれいに並べられた昆虫標本。夏休みの自由研究ここに極まれり。粘土でつくった昆虫の模型や虫かごの中に磯の様子を再現したものなど、理科と図工の垣根を超えた作品群に感服である。この他にも、オリジナルの折り方でいろいろな生き物を造形した「てきとうおりがみ」や大人と協力しながら米袋でつくった恐竜の着ぐるみ《米ぶくろのスピノ》など、バラエティ豊かな作品が集まった。

続いて、今年の「小学生ウィーク」の表紙を担当した5年生。もちろん、その原画となった《うちゅうにいるぞう》も出展作品の一つである(制作の様子はコチラから)。これに加えて、「金ヶ崎要害鬼祭」でつくった鬼のようなお面や「小学生ウィーク2023」でつくったねぶたのランタン、「小学生ウィーク2024」でかいた油絵など、大学校の歴史を物語る作品たちが大集合(「小学生ウィーク2024」の様子はコチラから)。また、低学年の頃につくったという《SOLAR SYSTEM》も初展示。どことなく、夏休みの絵にも通じる作品である。
さらに、「お兄ちゃんが出るなら」ということで、3年生の妹さんやもうすぐ小学生の弟さんも出展作家として名前を連ねることになった。《大学校のにわ》と題した油絵やはじめて挑戦した書道などバラエティ豊か。結果的に、旧菅原家(旧狩野家)侍住宅には、障子の絵も含めて3兄妹による創造の痕跡がいたるところに散りばめられることになった。
最後の一人は、大学校の活動が本格的に始まった2019年当初からしばしば足を運んでいた古参のメンバーである。当時はまだ未就学児だったが、あっという間に5年生。「小学生ウィーク」でのポスターづくりや、ねぶたのワークショップなどとあわせて、保護者と一緒にワカツキモケイの「模型の時間」にもどっぷりご参加いただいた。さらに、3年生だった頃には「小学生ウィーク2023」の表紙も担当している。《早く大きくならないかな》と題した作品は、夏を待つカエルが印象的な一枚だ。今回はその原画に加えて、トノサマバッタやイリオモテヤマネコなどをかいた絵や、家のまわりのいきものを調査した自由研究の成果物などを展示する。
今回、子どもたちの作品を展示するにあたって特に意識したのは、「子ども」の作品だからと特別視しないことであった。企画の枠組みとしては「金ケ崎芸術小学校による小さな作品展」として括ってはいるが、一人ひとりがアーティスト。ちょうど、村山さんが滞在制作をされている時に、先ほどの3兄妹が作品搬入に大学校に訪れてきた。すっかり日も暮れていたので、村山さんは屋内で石を布で包みながら作品を制作中。すると、「やってみたい」ということで一緒に作品づくりに参加することに。
即席でワークショップへと展開する村山さんのふるまいも含めて、誰もに開かれている状況について改めて考えるエピソードとなった。ちなみに、そこでつくられた「作品」は、村山さんの作品に紛れて旧菅原家(旧狩野家)侍住宅の庭園でさりげなく展示されている。
「ARTIST」とは何か?
11月1日から5日にかけては、かみしも結いの会の皆さんによる「行楽ランチ」もふるまわれた。版画を印刷したランチョンマットに、郷土料理の「ずるびき」に玄米、季節の野菜や果物で彩られた小鉢が並ぶ健康的な定食である。赤が強めだったため、食卓には少し賑やかすぎるかも……といった心配も何のその。お椀の上に乗せられたカエデの緑色とのコントラストも映えていた。まさに味覚でも視覚でも味わう「農民芸術」である。
おいしくいただいていると、かみしも結いの会のメンバーが「ちょっとかいてみたの」と「ホットタイムコーヒー」の手書きのメニューをお持ちいただいた。版画に触発されてかいてみたとのこと。確かに、「ホット」を感じさせる湯気のかき方には版画の成果が垣間見える。このように「ちょっとやってみる」という一歩には、まさに芸術家たる感受が作用しているのではないだろうか。そして、ちょっとやってみることには立場も年齢も関係ない。
ちなみに、「行楽ランチ」の期間にあわせて、会場ではかみしも結いの会の皆さんによる作品も展示されていた。シャドーボックスやスクラッチアートなど、それぞれの趣味の世界が広がる。ここではあえて「趣味」という言葉を用いているが、これらが「アートか否か」といった野暮な質問は横に置いておくとして、「アーティストとは何か?」という問いは、そのまま「アートとは何か?」という本質的な問いへと還元できる。
こうした議論は、大学校で定期的に開催している「図工の時間」で取り組む機会の多い折り紙やプラモデルにも当てはめることができる。これらはいずれも、いわゆる図画工作科や美術科の中では周辺的な領域に位置づけられる。例えば、絵画や彫刻、デザインや工芸などと照らし合わせた時、果たして「折り紙」はどこに位置づけられるのだろうか。
何となく、折り紙と美術の世界との間には、見えない壁のようなものが存在しているようにも思われる[i]。 実際、美術や図工の教科書で真正面から折り紙に取り組んだ題材を目にすることはほとんどない。一方で、幼少期の記憶を辿れば、1枚の紙から立体物をつくりだす折り紙に挑戦したことのある人は少なくなかろう。それは確かに造形的な活動である。にもかかわらず、なぜに美術教育の俎上にあがりにくいのだろうか。
ここに「美術」あるいは「アート」という言葉が必然的に内包する一種の排他性を見出すことができるのかもしれない。ことさらに美学の議論を参照するわけではないが、「美術」あるいは「アート」の定義をめぐっては多くの考え方が示されてきた。他方、日常的な用法としては、既に確立された一つの定義が存在するというよりも、「これは美術(アート)である」「これは美術(アート)ではない」「これは美術(アート)っぽい」といったやりとりの中におのずと立ち上がってくるものに近い。それゆえに、時代とともにその範疇も変化する。そして、宮沢賢治が示した『農民芸術概論綱要』の場合、「(農民)芸術」の対象はきわめて広く設定されている。
そもそも、「図工の時間」などでの子どもたちの様子を見ていると、「これが美術(アート)である」から折り紙に挑戦しているわけではないことは一目瞭然である。同様に、「これは美術(アート)である」と思って絵をかいているわけでもなさそうである。そこに紙があるから折る、そこに画材があるからかく、そこに粘土があるからこねてみる、といった具合に、美術(アート)である以前に、まず表現することから始まっている。
それゆえに、そこでは折り紙も絵も、粘土も、そして昆虫採集も草むしりも、石や棒を集めることさえも、等価に表現として成立し得る。これを「農民芸術祭」の構造に当てはめた時、どのような見せ方ができるのだろうか。今回の場合、村山さんや城山さんなどの作品と同様に、金ケ崎要害歴史館で展示する子どもたちの「作品」については、はっきりとキャプションを示した。一方で、旧菅原家(旧狩野家)侍住宅での展示では、あえてキャプションなどを設置せず、様々な創作物が混在するような状況を創出した。作品の総数は20点以上にのぼる。鑑賞者は、あたかも「子ども」の目に立ち返りながら、冒険するように作品(かもしれないもの)と遭遇することで、アートとアートでないものが未分化の状況を追体験することになる。
さらに、かみしも結いの会の代表が店主を務める衣料品店のショーウインドウでは、婦人服をまとったマネキンに並んで小学生の着ぐるみ型の作品も展示されている。来店したお客さんも「何が始まったの~」と驚きつつ、一通り会話に花が咲くらしい。駅の近くにある喫茶店の「りぼん館」にも子どもたちの作品が展示されている。実は、こちらのマスターはリボンフラワーの名手でもある。
子どもたち一人ひとりが「アーティスト」であるならば、それぞれの展示場所で生業を続けてきた方々もまさしく「アーティスト」である。そうした活動の集積が「図工のあるまち」を支えていく。ここには、ヨーゼフ・ボイスが「社会彫刻」という概念を使って示したところの「Everyone is an Artist」を重ねることもできるだろう。まだ会期が残っているため、ぜひ現地に足をお運びいただき、一緒に考えていただきたい所存である。
インフォメーション
城内農民芸術祭2025閉幕行事「新春準備祭2025→2026」+池宮中夫「鼓動のパレード」
毎月恒例の「図工の時間」の拡大版として、お面や縁起物などをつくります。また、14時より、ダンサーの池宮中夫さんをお招きして参加型のパレードを行います。
会場:旧菅原家(旧狩野家)侍住宅
日時:12月7日(日) 11時~15時
[プログラム]
11時~14時 図工の時間&歳末書き納め大会
・折り紙で縁起物をつくろう
・版画で年賀状をつくろう
・今年の漢字を書こう
・パレードに向けた準備いろいろ
14時~15時 池宮中夫「鼓動のパレード」
[i] もちろん、独自の折り方を創作する神谷哲史さんのように、美術館における展覧会に出展する折り紙作家もいらっしゃることについては付記しておきたい。
お問い合わせ先
旧菅原家(旧狩野家)侍住宅
〒029-4503 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根表小路9-2
℡:080-7225-1926(担当:市川)

















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